公共の精神

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ちょっと考えさせられる産経の記事を見つけたので、コレに関して書こうと思う。
まず、その記事なんだけど、いい記事なんで全文を載せたい。


http://www.sankei.co.jp/seikatsu/seikatsu/070108/skt070108000.htm
溶けゆく日本人】携帯の奴隷

■議場でメール、注意も無視

 「公共の精神」。その尊さを謳(うた)った改正教育基本法など、幾多の重要法案が審議された昨年秋の臨時国会。そのさなかの11月30日午後のことだった。

 「小学生に申し上げるようで恐縮ですが…」

 衆議院本会議直前に開かれた自民党代議士会で、マイクスタンドの前に立った議院運営委員会理事の西川京子氏は、そう切り出した。

 「ご存じとは思いますが、本会議場では携帯電話のスイッチを切り、使用されないようにお願いします」-。出席していた自民党議員からは一瞬ざわめきが起き、そして失笑が漏れた。

 西川氏がこの日、携帯電話について注意を促したのにはワケがあった。前日、議運の逢沢一郎委員長が河野洋平衆院議長に呼ばれ、こんな苦言を浴びせられたのだ。

 「本会議中、新聞を読んだり、携帯電話を操作したりする議員が目につく。若い人はルールを知らないのではないか」

 衆議院規則では、議事中に新聞や書籍を読むのは原則、禁止している。携帯電話の項目はないが、これに準ずるという解釈なのだろう。

 「議長席から、行儀のよくない行為が目につくらしい」。30日午前、与党の議運の理事が集まる「与理懇」で逢沢氏からこう伝えられたとき、理事の面々は思わず顔を見合わせた。「まさか、こんなことを注意されるなんて」。だれともなく漏らした言葉には、“小学生並み”に扱われた恥辱が滲(にじ)み出ていた。


 「国民の信頼にもとることがないよう努めなければならない」

 「言動のすべてが常に国民の注視の下にある」

 国会議員に配布される「衆議院手帖」「参議院手帖」に記された政治倫理綱領の一節だ。

 文字通り、先の臨時国会で議員の手元を“注視”してみた。そこには、信頼にもとる、美しくない姿が数多(あまた)あった。ある参議院議員は本会議中、左手で携帯電話を見事に操りながら、議場で拍手がわくと、それにあわせて右手で太ももを叩(たた)く、そんな醜い姿を延々と晒(さら)した。議会中に隣席の議員と携帯電話の画面を見せ合って、にやつく光景もあった。

 数年前、「大学の教室から私語が消えた」と話題になったことがある。携帯電話による「メール私語」が取って代わったのだ。国会の場がそれとダブる。野次(やじ)と怒号が減り、静寂に包まれる一方で増える“沈黙の私語”。

 素早い政治活動のために必要なメールもあると“抗弁”する関係者もいる。「地元でだれかが市長選に出馬表明したなど、本人に影響がある重要ニュースが入ると、すぐ知らせ、考えをまとめてもらう」とは、ある国会議員の秘書。だが、小さなマナーさえ守れない議員が、公約など守れるのだろうか。

 「議長席からは議席がよくみえるんだ。恥ずかしいことだな」。こう語ったのは、平成8年から7年間、衆議院副議長を務めた民主党最高顧問の渡部恒三衆院議員。携帯電話が国会の場を“侵食”する光景を、「国民の手本になる責任感や誇りがなくなってしまったのだろうな」と嘆いた。



 カメラを、CDを、本を…とさまざまな世界を食い潰(つぶ)し増殖する携帯電話は、人としてのモラルや常識をも確実に蝕(むしば)んでいる。

 晴れの式典の最中に携帯電話のメールに夢中になる親や新成人ら。心臓のペースメーカーへの悪影響を考え電源を切るよう呼びかけるステッカーが張られた優先席に座り、メールに興じる若者たち。病院での治療中にメールを打とうとする人々。先月にはプロ野球の契約更改の最中に幹部の携帯電話が2日続けて鳴り響き、選手が憤慨するようなこともあった。

 そしてJR東日本には、こんな“苦情”も寄せられるようになる。

 「車内での携帯電話の使用を認めろ」

 自民党の西川議員は言う。「『公共の精神』を重んじる教育を受けていないことが大きい」

 その西川議員が口頭で注意してから、国会の場から携帯と“戯れる”議員の姿は消えたのか。答えはノーだった。先生の言うことを聞かない「学級崩壊」現象が、教育基本法の改正を議論する国会の場でまさに起きていた。(山口暢彦)



 かつて「菊の優美さ」に喩(たと)えられた高いモラル観が、小泉八雲が礼賛した美しい礼節の数々が、日本人から急速に失われようとしている。溶けゆく日本人の姿を連載で追う。

 《メモ》携帯電話のマナーがわずかながらも改善されているというデータもある。

 日本民営鉄道協会が大手16社の利用者に年1回行っているアンケートでは、平成11年度から15年度まで4回連続(12年度は実施せず)で、迷惑行為の1位は「携帯電話」だったが、16年度以降は3年連続で「座席の座り方」が1位に(携帯電話は2位)。協会では、15年9月に関東圏の主要鉄道各社が「優先席付近では電源オフ」「それ以外ではマナーモードを設定し、通話は遠慮」と呼びかけを統一したことが大きいとみている。

(2007/01/08 15:00)


引用ここまで
これは基本的に携帯電話のマナーに関してを例にひいて書いてるんだけど、
僕の実体験でもちょっとお話したいと思う。
僕は、拡張型心筋症で大学病院の循環器内科に通ってるんだけど、ここの待合室ですら携帯使う人いる。
当然患者なんだけど、循環器内科の待合室という状況ですらいるのが驚きなんだな。

ペースメーカーを入れてる人だっているし、なにより院内は携帯禁止になってるのは承知のはず。
これが若者ならまだしも、いい年した年配の人だったりしるんだな。。。
そして、ありえない大声で電話してる。周りの人はみないちおうに苦虫を噛み潰した顔をしてる。
看護師や事務員さんみたいな人も何も言わない。誰も何も言わないんだな。

どうしてこんな風になってしまったんだろうか?
国会ですらこういう状況なんだから、病院や電車や教室でこういう事が起きるのは当然だろうか?


巷聞く話しによると、アメリカの大学(優秀な有名大学)とかでは徹底的に公共善を教えるらしい。
日本の大学は、高校の復習から教えるらしいね。思えば、僕も小学時代の道徳の時間くらいだ。
先生は、お金の貸し借りはいけません!と僕達に教えてくれたな(笑)
僕は、ちょっと変わった子だったせいもあって、先生は嘘つきだと思って聞いてた記憶がある。

どうして嘘つきかだけど、借金して家や車を大人が買うって知ってたからだな。
母親が、ばあちゃんからお金借りるのも知ってたし、それはむしろいい事だと思ってたから。
そうして人は段々大人になるんだけど、人としてしていけない事、してもいい事の区別、
分別っていうのかな、そういう事は誰でもみんなわかってるはずなんだな。

赤信号、みんなで渡れば怖くない、一人殺せば殺人犯、たくさん殺せば英雄だ、とかいうのを
わかってても普通はやらないよね。小さな悪を見逃すと、感覚が麻痺してくる。
NYの地下鉄の落書き消したら犯罪率が減ったとか、そういう理性が人間にはちゃんとあると思う。
同じような内容の記事を幾つか書いてるけど、本質的に人間には善という意識があるはずなんだよ。

動物には、生きる為に食べる(殺す)という意識はあるけど、善という意識はあんまりないと思う。
人間だって、生きる為に盗んででも食べるってのはあるだろうけどね(ほたるの墓みたいな)
話を戻すと、院内で携帯でお話した人は、電話きった後も全然何事もなかったような顔して座ってる。
周りに迷惑かけたという表情すら見せない。だからからか電話でお話できるのか?

いみじくも、文部大臣が事務所費の件で、恥ずかしいような事は人生でした事ないと言い切ったよね。
この人は、いじめ問題でも頑張ったのは認めるけど、子供達に再度おなじ事を言えるだろうか?
完璧な人はいないのは承知だけど、政治家とお金の問題は、恥ずかしい事じゃないのかな?
この人を槍玉にあげるわけじゃないけど、僕達大人は、猛烈にみんな反省しないといけないと思う。

僕の大好きな詩の一つに、谷川俊太郎氏の「生きる」ってのがあるんだけど
http://www.sopia.or.jp/kuwa/ikiru/top.htm   ←全文があります。
この中に、こういう一節がある。


生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと


きれいごとだけじゃ生きるのは大変だけど、
かくされた悪を注意深くこばむって事は、とても大事な事だと思う。
みんなが、同じような気持ちをもって世の中を生きていけるような国であってほしいです。

「菊の優美さ」に喩(たと)えられた高いモラル観が、小泉八雲が礼賛した美しい礼節の数々を
再び取り戻して、明るい未来を子供達の為にも残してあげないといけないんじゃないかなって思います。




写真は、あえて自虐的なのを選びますた。。。